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【屑と天才は】石川啄木の生涯まとめ完全版【紙一重】

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こんにちは、キタノリクです。

突然ですが、皆さんは石川啄木をご存知でしょうか。石川啄木は明治時代の詩人であり歌人であります。教科書で皆さん一回くらいは名前を見たことがあるはず。一部界隈では彼の著作「ローマ字日記」により文壇のキングオブクズとして名高い石川啄木ですが、実を言うと私、一番の推し歌人(推し歌人ってなんだ)と言って過言ではないほど啄木の書く詩、短歌が、もうそれは、とてつもなく大好きなんです!!

啄木の生涯はたったの二十六年と二ヶ月であり大変短い間しか生きられなかったのですが、滅茶苦茶(屑で)波乱万丈な人生を送っているんです。繊細で美しい文学観で著名な啄木ですが、彼の美しい文学作品の数々は啄木の山あり谷ありの人生を経たからこそ生みだせた、文字通り彼の血と汗と涙の結晶だと言っても過言ではありません。

今回はその啄木文学の理解を皆さまに深めていただきたく、ゴリゴリ私的解釈を混ぜながら啄木の二十六年間の生涯をまとめました。二十六年間しか生きて無い癖に恐ろしく人生濃すぎてまとめるのに苦労しましたが、そこは啄木文学への愛で乗り越えました。以下目次となります。

 

 啄木の生涯

岩手県盛岡市にて出生後、少年期に至るまで(〇歳〜十七歳)

 神童と言わしめた児童期

本名は「石川一(はじめ)」 明治十九年、岩手県盛岡市にある曹洞宗日照山常光寺の住職である父・石川一禎の長男として生を受けました。姉二人妹一人という女姉妹の間で生まれ、四人の子供の中で唯一の男児であった啄木を母カツは飛び抜けて溺愛したと言います。溺愛しすぎて後に啄木の妻となる節子とかなりの軋轢が生じることとなりますが…それは後の話。

写真から見て取れるように容姿にも恵まれていたらしく、後に高等小学校(※四年制の尋常小学校を卒業した後に入学する三年又は二年制の小学校のこと)で出会い、啄木の生涯の知己となる金田一京助は級友の「幼稚園に行くのを間違って来た子がいる」という言葉を真に受けてしまう程に可愛らしい顔だったそうな。

 禅寺の息子であった為幼い頃より読み書きなどの手習いを施される機会に恵まれたのでしょう、尋常小学校・高等小学校ともになんと主席で卒業。特に作文の才能はずば抜けたものがあったそうです。才気溢れ利発な当時の啄木を村の人々は「神童」と褒めそやしたと言います。

文学を志す転機となった少年期

高等小学校を卒業後は尋常中学校へ入学。この頃啄木は「軍人になると言ひ出して、父母に苦労させたる昔の我かな」と歌ってる通り海軍へ憧れを抱いており、後に海軍大臣になる上級生・及川古志郎と面識を得ます。読書家であった及川から啄木は文学の知識与えられ、その文学の中で彼が最初に興味を持ったのが短歌であったのです。「歌がやりたいのだったら」と及川は啄木に既に文芸誌「明星」で活躍している四つ年上の金田一京助を紹介してくれます。そうして出会った京助から明星を貸してもらい、啄木は夢中になって読み耽ります。特に与謝野晶子の短歌にいたく影響を受け、やがて彼は文学へと傾倒してゆくこととなるのです。又、後の妻となる堀合節子ともこの時に出会い、初恋に落ちます。高まる文学と恋の熱、当然それに比例して落下する学業成績。入学当時は128人中10番目の好成績だったのに対し、入学後は恋と文学にのめり込み学業に殆ど関心を持てなくなってしまったのでしょう。学生間で回覧雑誌を発行し作品を発表したり、仲間と一緒に岩手日報に詩歌を出したりする一方で、徐々に成績は下がり続け中学校四年次の成績に至っては、119人中82番目と下から数えたほうが早かったと言います。

啄木は最終的には学校に退学を勧告されてしまい、それを受け入れ自主退学します。ちなみに、退学の発端となったのは四年次と五年次に犯した二度のカンニングです。四年次期末試験において一度目のカンニングを行いこの時は始末書提出で済んだのですが、その約三ヶ月後の五年次一学期期末試験で苦手な数学の試験中に、またもや懲りずに二度目のカンニングを犯します。一学期の成績は出席日数不足も重なり当然惨憺たる結果となり、つまり落第必至。余談ですが二度目のカンニングの際、協力を無理強いされた友人は特待生だったのですが、啄木のカンニングの片棒を担がされてしまったばっかりに特待生の権利を剥奪されたとか。これが本当のとばっちりってやつですね。

年譜によると出席104時間、欠席207時間とあります。つまり殆ど学校へ行っていなかったのでしょう。授業に出ていなければ、試験など分かりようもありません。それで結局カンニングという暴挙に出たのでしょう。 

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↑「明星」明治三十五年第4号 装画:藤島武二

啄木が学業を怠けた真相

啄木が学業を疎かにした理由として挙げられるのは、一般的には上記のような恋と文学への傾倒だと言われていますが、実を言うとそれだけではなかったのかもしれません。

というのも、当時父の寺の経済事情が芳しくないことから啄木は授業料を滞納していました。進学を諦めざるを得ない決定打になったのは、檀家からの寄進の打ち切りだったとも言われています。神童と言われてもどれだけ優秀な成績を収めようとも、一家には進学を支えるに足る経済的余裕が無いことにそれとなく気づいてしまった啄木が学業への興味を失ったとしても、それは仕方のないことでしょう。学業の優秀さや親の職業によって他者から得られる尊敬は彼の中で意味を持たないものと化し、啄木はそれに変わるものとして恋愛や文学の中に自身のアイデンティティや存在価値を模索し始めたのでしょう。しかし彼には今まで寺の坊ちゃんとして育ち、神童という一種「小貴族」のような手厚い扱いをされた過去がその身に根ざしています。ゆえに周りから名声や承認欲求を求めずにはいられない自尊心の高さが仇となり、度重なるカンニングという不正行為へ繋がったのでしょう。

夢を抱いて上京を果たすも

上記の通り啄木は明治三五年(啄木十六歳)の秋に「家事上の都合」という理由をつけて退学願を提出、受理されました。今まで順風満帆な出世街道を歩んできた啄木の転機のひとつと言えるでしょう。文学で身を立てると心に決めた当時一六歳の啄木は上京、愛読していた「明星」の出版元である「新詩社」を訪ね、与謝野鉄幹、晶子夫妻と面識を得ます。滞在しながら図書館で毎日勉強し、作品を作り、出版社へ就職なり翻訳業で稼ぎを得て生計を立てるつもりでいたようですが、若さと情熱だけで勝負できるほど容易いものではなかったようで結局仕事は見つからず、元が病弱である為に病にかかり体調を崩します。無収入となり家賃を滞納した結果、下宿を追われる羽目に。その後父が迎えに来て盛岡へ帰るまでは東京の友人の家で厄介になっていたようです。東京に滞在した期間はたったの四ヶ月程でした。盛岡へ帰郷後も明星や岩手日報で作品を発表し続けていた啄木。ちなみに「啄木」という筆名の由来ですが、彼が当時「明星」で発表したこちらの一句をまずご覧下さい。

ほほけては 藪かけめぐる啄木鳥の みにくきがごと我は痩せにき
訳: ぼんやりと鈍ってしまってから、まるで藪をかけめぐるキツツキのように醜く私は痩せてしまった

このように痩せっぽちの自分を嘲る意味で「啄木鳥」から取った説、また帰郷後盛岡で静養生活を送っていた際に境内の木を啄木鳥が叩く音に慰められたことから、とも言われています。そして十七歳当時、「啄木」の筆名を使って明星誌面に掲載された五編の長詩「愁調」が文壇で大きく注目を浴びます。その後も啄木は明星で新詩社同人として精力的に活動を続けて行きます。

青年期、岩手盛岡と北海道函館・釧路での生活(十八歳〜二十二歳)

節子との婚約と処女詩集「あこがれ」刊行

明治三十七年(啄木十八歳)啄木はかねてから交際を続けていた堀合節子と婚約します。その間も詩作に専念し続け作品は五十一編にものぼるようになります。これだけあれば詩集を出版できるだろうと考えた啄木は同年一〇月、処女詩集である「あこがれ」刊行の援助を得るために再び上京を果たします。

ツテというツテを辿って著名な作家を訪ねては出版社を紹介してもらおうとしますが、すべて徒労に終わります。普通ならここで諦めそうなものですが、流石は啄木。若さと持ち前の行動力で「こうなったら東京市長にすがろう!」ととんでもないことを思いつき、思い立ったら即日とばかりにアポなし紹介状なし駄目で元々で東京市長へ突撃。当時の市長・尾崎行雄はかつて大隈内閣で文部大臣を務めていた大物政治家であり、若輩者の啄木では簡単にお目通りがかなう人物ではありません。ですが幸運にも面会できたのです。が、当然ながら「詩歌なぞ男子が一生の仕事にするものではあるまい。もっと実用的なことを勉強しなさい」と市長からお叱りを受け当然詩集出版の件も一蹴されてしまいます。

持ち駒を全て使い果たした啄木の頭にふとよぎったのは、郷里の高等小学校時代の学友のこと。その学友の長兄が出版社に勤めていると聞いたことを思い出し、藁にもすがる思いでその学友を頼ります。学友は、実家と断絶していたために連絡が取れなかった長兄の代わりに、当時銀行員だった次兄・小田島尚三を紹介してくれます。尚三は啄木と初めて対面した当時のことを「少し法螺吹きのように感じたけれど、目がとても澄んでいたので詩人とはこういうものかと思った」と語り、詩集刊行の為の資金を提供してくれました。尚三の多大なる協力を得て、無事翌年の明治三十八年五月に処女詩集「あこがれ」は刊行へと至るのです。

ちなみにこの詩集「あこがれ」ですが、序文は詩人である上田敏が、あとがきは文芸誌明星の主宰である与謝野鉄幹が寄せるという大変豪華なものです。当時最も評価の高い歌人二人が前書きと後書きを務めたわけですから、一部からは「内容は単なる模倣に過ぎない」という批評もあったそうですが詩人として文句なしの華々しい門出であったことは間違いないでしょう。しかし、啄木は詩集の原稿を出版社に売って金を得るつもりでいたのでしょう。結局出版するだけで資金は吹き飛び、手元にお金は残らなかったことに不満を抱いていたようです。

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石川啄木 処女歌集「あこがれ」

父が住職罷免処分を受ける

啄木は上京後そのまま東京に留まって詩人として活動し、いずれは婚約した節子を迎えて生活する心積もりでした。しかし、ここで状況が一変します。同年十二月、父が宗費(※本山への上納金のこと)滞納を理由に住職罷免の処分を受けるのです。つまり突然父が失業したのです。となると一家の扶養は長男たる啄木が負う流れになります。齢二十歳にもならない、金の稼ぎ方も知らない若々しい詩人が一家扶養の責をその細い双肩に担うというのはどれだけ苦しいものだったのでしょうか。啄木にはいっそ過ぎたこの重責は彼の生涯に今後深く影と落とすこととなります。

明治三十八年(啄木十九歳)三月に石川家は寺を退去。同年五月に啄木は処女詩集「あこがれ」を刊行。この作品によって啄木は詩人として一定の評価を得るものの、当時短歌では独り身ならまだしも一家を養えるほどの経済力を得ることは出来ず啄木は煩悶します。そうこうしている間に父は啄木と節子の婚姻届を役所へ提出。親戚を集めただけの形式的なものですが結婚式の準備を整えて啄木の帰郷を待ちます。

花婿不在の結婚式

はい、ここから皆さんお待ちかねの啄木クズ伝説の幕開けです。啄木君は「詩集刊行するから東京行ってくる!」と言ったきり待てど暮らせど東京から帰ってきません。結婚式の準備を進めていた郷里の友人・上野は、再三東京にいる友人に「啄木に早く盛岡へ帰るようにせっついてくれ」と頼みますが、啄木が東京から動く様子はありせんでした。東京の友人たちは帰りの汽車に乗る金もない啄木を慮ってみなそれぞれ持ち寄り、汽車賃を出してくれました。そうしてようやく啄木は、詩集「あこがれ」を胸に抱いて東京を発つのです。そのまま盛岡まで帰ってくれれば良かったのですが、またしても啄木は「会いたい人がいるから」という理由で仙台に勝手に途中下車してしまいます。そこで啄木は旅館に泊まり仙台医専に通う友人たちと酒盛りをして遊んだ挙句、詩人・土井晩翠の奥方に「母が重病にかかり危篤だと幼い妹から手紙が来た。しかし旅費の無い私はこのままでは郷里へ帰れず母の死に目に遭うことができません。どうかお願いですから郷里まで帰るためのお金を立て替えてはくれませんでしょうか」という大嘘だらけの手紙を拵えて送りつけます。心優しい晩翠の奥方はその手紙を信じきり啄木にお金を渡してくれました。さらに旅館の宿泊料も晩翠家が支払ってくれています。

おそらく啄木は当てにしていた詩集は金にならず、父親は失業し無収入、しかし月末には己の結婚式が控えていることからどうあっても金を用意しておく必要があると考えたのでしょう。所謂、無職としての負い目を感じて、このままでは帰るに帰れないとでも考えていたのでしょうか。晩翠家の借金を返済したという記録はありませんから、啄木は当然踏み倒したのでしょうね。相手が良かったから訴えられなかったものの、これはれっきとした詐欺行為でありおよそ普通の人間ができる所業ではありません。

五月三十日に執り行うはずであった結婚式にとうとう啄木は姿を現さず、結局花婿不在で式は執り行われたとのこと。啄木が帰郷したのは結婚式の日を五日も過ぎた六月四日だったと言います。この一件から結婚式の世話をしてくれた友人・上野は啄木へ絶交を言い渡したそうです。散々駆けずり回って結局姿を現さなかった啄木に対し、上野が「恩を仇で返された」と思うのも当然の成り行きでしょう。

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↑ 婚約した啄木と妻・節子(明治三十七年当時)

主宰雑誌の発行を断念、その後小学校の代用教員に

啄木は故郷の盛岡市渋民村ではなく、同じ市内ではありますが帷子小路に新居に構えて父母、嫁の節子、妹の光子と同居しながら、甘いとはいえない新婚生活を送ることになります。結婚後は岩手日報にエッセイなどの作品を連載しながら、自身が主宰・編集人なった文芸誌「小天地」を出版。多くの著名な歌人を迎えて作品を掲載したことや主宰人である啄木自身の詩も評価され「地方誌にしては体裁が整っている」と文壇で好評を得て第2号の出版も計画されましたが資金繰りに窮し、あえなく継続出版を断念しました。

そうこうしている間にいたずらに借金は膨れ上がり、いよいよ一家の経済状態は一層厳しさを増していくばかり。その困窮たるや友人である波岡茂輝に生活難を匂わせる手紙を書き、当時函館駅長であった義兄(※次姉の夫にあたる)に打開方法を訴えるほどでしたが解決には至らなかったようです。

明治三九年二月(啄木二十歳)啄木の長姉が結核で死去。一家を養う為に文学どころではなくなった啄木は同年三月、母と妻を伴って故郷の渋民村へ戻り四月には尋常高等小学校の代用教員に就任。(※啄木は尋常中学校を中退していた為正式な教員にはなれなかった)

放課後に生徒たちに英語を教えるなど熱心に教鞭を振るう一方で、夏目漱石島崎藤村らの作品に影響を受け貧しさに反して啄木の創作意欲は止むことはありませんでした。同年六月頃から啄木は小説の執筆を始め、その後二編の小説を脱稿し出版社へ送付しますが返却され出版は叶わず。この頃になると父一禎に曹洞宗宗務局から恩赦通知があり、北海道で伯父が住職を務める寺へ身を寄せていた父も盛岡へ帰郷します。同年十二月に長女京子が生誕し、啄木は日記に束の間の喜びを記します。

生まれ故郷を失うまでの経緯

啄木が渋民村へ戻った本当の目的は、やはり偏に父の住職再任を目論んでのことでしょう。つまり何としてでも己は一家扶養の責任から逃れたかったというわけです。教員という職を経ても、啄木はやはり文学者としての道を捨て切れませんでした 。それを裏打ちするかのように、日記からは渋民村に暮らす人々への敵意が見て取れます。

「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は常に予の敵である」
「朝生暮死の虫けらと同じく、彼等の生活には詩がない。詩のない幸福! ああ、若し自分が一瞬たりとも彼等の平安を羨ましいと思ふ事があるなら、それは自分に取つて最大の侮辱である。」

しかし啄木の目論見は失敗に終わります。明治四十年三月(啄木二一歳)生活の困窮により住職再任の前提である滞納宗費弁済の見通しが付かなかったこと、村の権力闘争に耐えきれなくなった父一禎が住職再任を断念し再度伯父を頼って出奔してしまったのです。この頃になると妹・光子が通う女学校への学費の支払いも儘ならなくなり、光子は学校を退学しています。

啄木はかねてから原稿の依頼が舞い込んでいた函館の文芸社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」で得たツテを辿り、北海道での新生活を決意します。同年四月、啄木は代用教員の辞表を提出します。一旦は引き留められますが、啄木は高等小学校の生徒たちを巻き込んで校長排斥のストライキを扇動し、結局は免職と相成ります。成り行きは違いますが、中学校時代にカンニング騒動を起こして自主退学を勧告された状況と酷似しており、啄木の所謂逃げ癖というのでしょうか。つまり中学の頃から精神面がまったく成長していないことがそこはかとなく窺える事件でもありますね。

その後啄木は函館に移住します。しかし金銭的事情から家族を伴ってというわけにはいかず、妻子は盛岡の節子の実家へ、母親は村の知人へ、妹は小樽駅長の次兄に託し、こうして一家は離散。これ以降、啄木は故郷である渋民村へ帰ることはありませんでした。

第二の故郷・函館での生活

明治四十年五月(啄木二一歳)啄木は北海道・函館へ渡り、知人の下宿に身を寄せます。この縁で啄木は苜蓿社同人の宮崎郁雨と知り合います。郁雨はその後啄木の家族を北海道へ呼び寄せるために旅費を支払ってくれるなど、出逢ったその日から啄木と郁雨とはまるで年来の付き合いがあったかのように馬が合ったようです。日記にも「宮崎(郁雨)君あり。これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛を得たり」と記しています。その後も金銭的精神的ともに郁雨は啄木への援助を惜しまぬ良き友人となります。

函館に移り住んだ啄木は商工会議所の臨時雇い、小学校の代用教員、函館日日新聞社の遊軍記者などで職を得て生計を立てていたようです。函館在住の歌人たちは啄木の来函を「鶏小屋に孔雀が舞い込んできた」と言わんばかりにあたたかく迎えてくれました。彼らの交流がきっかけでそれまで専ら長詩ばかり書いていた啄木は、およそ二年ぶりに短歌に触れる機会を得たといいます。函館での滞在はたった四ヶ月程の出来事でしたが、余程水に合ったのでしょう。生前友人に宛てた手紙で「死ぬなら函館で死にたい」と記すほどに函館での出会いと生活は彼の幸薄い生涯のなかで幸福な重みがあったようです。実際、歌集「一握の砂」にも函館での滞在経験から抒情的影響を与えられて生まれた名歌も収録されています。北海道で流浪の日々を送った経験から生まれた歌を「一握の砂」から削除すれば魅力半減であることは間違いありません。ここで暮らした日々は、以後啄木の晩年の創作の上で種となり花を咲かせ実を結ぶのです。どこかの掲示板で「生まれ故郷の盛岡より、たった数ヶ月しかいない函館でのほうがよっぽど偉人扱いされてる」とか見たような気がしますが、まあそれにはこういった理由があるので偉人扱いするのはあながち間違いというわけでもないのです。

まさに啄木の「第二の故郷」とも言える函館での生活でしたが前述した通り、残念ですがその幸せは長くは続きません。同年八月末の函館大火によりいくつもの町が全焼。啄木の勤め先である函館日々新聞社や弥生尋常小学校も焼失します。啄木はもはや焼け野原になった函館を前にもうここで生きては行けないと観念し新たな働き口を求めて札幌へ目指すべく、後ろ髪を引かれる思いで函館を去ったのでした。

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↑ 新潟県で生まれた函館出身の歌人・宮崎郁雨(1885〜1962)

小樽で新聞記者としての才能を発揮するも

明治四十年九月(啄木二一歳)札幌へ渡り北門新報社で校正係の職を得ますが、初出社して十日ばかりのときに知人から「新しい新聞社である小樽日報社が創業するからどうか」という誘いを受けて創業参加を決意、九月末には北門新報社を退社し小樽日報の新聞記者として勤め始めます。

ちなみ啄木は新聞記者としての才能もあったようで、啄木が書くと新聞が売れるとまで言われるほどに記者としてその文才を発揮していました。しかしここでまた啄木の悪い癖が発揮されます。記者として評価されたことに気を良くしたのか勤めだしてわずか三ヶ月ほどで遅刻や無断欠勤を繰り返すようになるのです。それを見かねた当時の事務局長が、たまたまその日は無断欠勤していた啄木がおめおめと夕方社に出てきたところを注意します。そしてそのまま激しい口論へなだれ込み、しまいに激怒した局長が啄木を殴り飛ばすわけです。それを契機に啄木は「もうやーめた!」とばかりに小樽日報を退社してしまいます。しかし幸運にも啄木の才能を買ってくれていた小樽日報の白石社長が厚意で、社長が別で経営している釧路新聞に啄木を斡旋してくれたのです。

釧路新聞社で花形新聞記者になるも

社長の厚意で釧路新聞へ入社を果たした啄木は、翌年の明治四十一年一月(啄木二十二歳)小樽に妻子を置いて単身で釧路へ渡ります。啄木は入社に際して白石社長に「初めに小生に総編集をやらして貰いたし」という意見書を提出して見せたところから相当己の才能に自信を抱いていたことが窺えます。社長は啄木を三面主任に据えます。しかし他に有能な社員がいなかったことから、結果紙面の編集すべてが啄木に一任されるため実質編集長格でした。つまり現代の言葉で言うとデスクでしょうか?肩書きだけでなく啄木の新聞記者としての腕は確かなものでした。啄木は編集長ですから現場へ足を運びません。記者とは別に探訪員がおり社に上ってきた情報を記事にまとめるのが啄木の仕事だったわけです。編集長着任後は紙面改革に尽力し、幅広く紙面にコーナーを設け、コーナーごとに文体を使い分けるという器用さを発揮し、社会問題にも舌鋒鋭く切り込んでいきます。実際この紙面改革は大きく評価され、社長から銀時計と現金の褒賞をもらったといいます。

しかしそれで人間性が優れているかどうかという話は別です。この頃になると啄木は妻子を顧みずに、借金で苦しい生活を強いられる節子をよそに釧路の料亭で酒の味を覚え、芸妓遊びを知り、毎晩遊び歩くようになります。それをネタにして紙面に芸妓のこぼれ話「紅筆便り」を連載。当時の啄木の月給は二十五円(※現代でいうところの約三〇万円)贅沢せずにいれば妻子を十分養っていける給料を貰いながらその殆どを女遊びで浪費し、借金を重ねては踏み倒し、小樽に残した極貧の妻子へ送金を十分にすることはなく、妻節子と娘京子は北海道の厳しい冬を貧困に喘ぎながら過ごしたといいます。

この頃に啄木は料亭「鶤寅(しゃもとら)」の芸妓・小奴と懇意になりこの料亭に通いつめるようになりますが、以前啄木が芸妓遊びでよく出入りしていた「喜望楼」の女将がこれをよく思わず小奴と啄木を仲違いさせようと謀略していた事実を事前に知ってしまったり。はたまた自分に想いを寄せていた看護婦である梅川操と同僚・佐藤衣川との醜聞事件もあったり。こういった不愉快な出来事がきっかけで、やがて啄木の悪い癖が顔を覗かせます。三月十六日の日記に「社を休む。何にも面白い事が無い。」と書いて以降、度々欠勤を繰り返しふて寝してばかりいる怠惰な生活を送り始めるのです。

「不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になつた。」
「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。」

日記には度重なる女性問題や、社内の同僚、主筆との人間関係のいざこざに嫌気が差した旨が上記のように記されています。啄木は度々欠勤を繰り返します。けれど啄木は編集長です。責任ある立場にいる啄木にそう何度も休まれると、業務に支障をきたすと判断した主筆か事務局長かが上京中の社長にその旨を報告したのでしょう。社長は小樽日報時代の啄木の勤務状況や振る舞いを承知していたこともあり電報を打ち、その電報は三月二十八日、その日も欠勤をしていた啄木の元へ届きます。それは社長からの啄木への最後通牒でもありました。

“ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ”

たった一四文字のその文面を見たとき、「急に頭がスッキリした」と日記にも記してあるように、かねてから返済のめども立たぬほどに膨れ上がった借金を抱えた釧路から逃げる機会をどこかで窺っていた啄木は、ついに釧路を去る決意をしたのです。このときの去り方といいったら、下宿先や勤務先には「ちょっと函館の家族まで」としか告げておらず、ほぼ夜逃げ同然で釧路を発ったといいます。釧路へ滞在した期間は短いもので僅か二ヶ月程でしたが、芸妓・小奴や看護婦・梅川操との出会いもまた啄木の創作の種となり、後の作品に存在を残すこととなります。

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↑ 啄木が釧路に滞在した際に懇意にしていた芸妓・小奴

そして文筆の道へ

暮らしぶりは(啄木にしては)良かった釧路でしたが、複雑な人間関係に絡みとられ自分の中に眠る「天才」の血が死ぬような感覚を覚えたのでしょうか。二月二十九日の日記にこう記されています。

「釧路に来て、本を手にしたことは一度もない。芸者に近づいたのも初めてだがそれを思ふと淋しいかげがさす。」

当時の啄木は既婚者で、既に妻子を持ちその扶養を担う立場であり、かつ社会的地位が確約された花形新聞記者でもありました。けれど年齢だけ見れば弱冠二十二歳の若造です。自らの文才に過剰な自信を抱き、己の言葉ひとつで他人を籠絡し世の中を動かせると本気で思っていたような傲慢不遜な様子もありました。だから普通の人間の生活の真似事をして多少の渡世術を覚えたところで、どこか常人の道から外れてしまう。そんな自分にはやはり文学しか無いのだと悟ったような悲しみを、北海道を去る経緯から感じられます。もし啄木がここで新聞記者を辞めずに北海道に留まる道を選んだならば、多少の地位や名誉を得て地元内では有名な名士くらいにはなれたのでしょうか。しかしそうならない、出来ないところが啄木が啄木たる由縁なのでしょうね。

晩年、東京での執筆活動と肺結核による死(二十二歳〜二十六歳)

小説家を目指すべく再び上京

明治四十一年四月(啄木二十二歳)妻子を宮崎郁雨に託し、同年五月には旧友の金田一京助を頼って生涯最後の上京を果たします。当時の京助は東大卒業後、アイヌ語研究を続けながら中学校の国語教師をしており、現在の文京区にあった「赤心館」という下宿で暮らしていたのですが、そこへ啄木が転がり込んできたという次第です。赤貧を極めて下宿代すら払えない啄木を見るに見かねた京助は、自分の着物や私物を質に入れて啄木に金を貸した上に、さらに啄木の下宿代まで支払っていたといいます。そうした金銭的援助を受けながら啄木は一ヶ月の間に六編の小説を脱稿しますが評価されることはなく、いずれも出版には至りませんでした。

六月になり、啄木は小説執筆の失敗を自覚。小説の才が己にないことを悟った啄木は失意のどん底に這い、泣きながら夢を打ち砕かれた悲しみと怒りをぶつけるように、短歌を書き散らします。この挫折こそが啄木の短歌の作風に大きな転換をもたらし、またこの時の短歌が後に歌集「一握の砂」となるのです。啄木はその当時のことを日記にこう記しています。

「頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。」

啄木は後に朝日新聞で連載する評論「食うべき詩」で自身の短歌のことをこう記しています。

「私は小説を書きたかった。否、書くつもりであった。また実際書いてもみた。そうしてついに書けなかった。その時、ちょうど夫婦喧嘩げんかをして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。」

つまり彼にとって短歌は仕事ではなく、あくまで自分自身の始末のつけようの無い感情の捌け口、いわば玩具だったのだと語っているのです。夢破れ、つまらない上に金にもならない小説を書くことに時間を費やした自分自身をあざ笑うかのような歌を作りながら、それでもなお続く生活のなかに根付くありふれた日常のうつくさを鏡のように写した短歌は、皮肉にも啄木死後多くの人々の心を掴むことになったのです。

親友・金田一京助

八月になると流石の京助も下宿代に事欠き、おかみに支払いを待ってくれるよう頼みましたが、啄木の下宿代のツケがかさんでいる現状から頷いてはくれず。融通の利かないおかみに怒った京助は一切啄木に相談することなく荷車二台分の愛蔵書を古書店に持ち込み金を作ります。蔵書の中には自身の言語研究に必要な本もありましたがそれすら売り払ってしまったのです。その金で滞納していた家賃を支払い次の下宿先を確保しました。見事にすっからかんになった本棚を見て全てを察した啄木は、空よりも広く海よりも深い金田一京助の懐の大きさに深く深く感謝したといいます。この後二人は小料理屋に入りビールで乾杯しますが、京助は内心蔵書を売り払ってしまったことを後悔していたといいます。当時の胸中を京助は回想で次のように語っています。

「実をいえば、本の愛着とでもいうものがあって、このときのビールほど様々な味をもったビールを飲んだことがない」

言語学者であった京助にとって大切な蔵書を手放すのは我が子を捨てるにも似た苦悩があったことでしょう。しかし余程啄木の文学的才能に惚れ込んでいたのか、目の前で下宿を追い出されそうになっている親友を見捨てることは出来なかったのでしょうね。啄木の生涯の宝は、金田一京助という知己を得たことと言っても過言では無いでしょう。

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↑ 岩手県出身の言語学者金田一京助(1882〜1971)

 朝日新聞の校正係として就職

明治四十一年九月、京助の厚意により新しい下宿先「蓋平館別荘」へ移ります。十一月になると毎日新聞に勤務している歌人仲間が「紙面で小説を連載しないか」と声をかけてくれたため、啄木は毎日新聞で小説「鳥影」の連載を開始します。

そして同じく十一月に、かつて啄木に文学の影響を与えてくれた文芸誌「明星」が百号を迎えると共に終刊。それにあたって翌年の明治四十二年一月(啄木二十三歳)雑誌「スバル」が創刊されます。啄木は前年上京した折に与謝野鉄幹に連れられて森鴎外の歌会に参加したことをきっかけにこのスバルの創刊に参加し、誌面で小説を掲載します。スバル第二号に至っては啄木自ら編集を行いますが、掲載した自らの自伝小説「足跡(その一)」が早稲田文学で酷評されていた事実を知り意気消沈します。

同年二月には働き口を求め朝日新聞へスバルを履歴書と一緒に送ります。相手は今まで自分が勤めてきた地方新聞とは格が違う東京の一流新聞です。啄木は駄目もとの気持ちでしたがその後当時の朝日新聞編集長・佐藤北江氏は啄木と面談の機会を持った後、幸運にも朝日新聞の校正係として採用されます。この頃になると北海道の郁雨に預けていた家族から「肩身が狭いのでいい加減早く呼び寄せてくれ」という旨の手紙が届くようになります。啄木の小説が新聞に掲載されるようになり、また朝日新聞へ就職もできたことから十分家族を扶養できるだろうと思ってそういう手紙を送っていたのでしょう。しかし、啄木は当然何の準備もしていません。慌てて理髪店の二階の借りる段取りをつけ、転居に必要な金は郁雨から借金しました。しかし家族を背負うプレッシャーに押し潰され小説の原稿が遅々として進まず、そのうち常に何かに追い立てられているという焦りからいつしか啄木は小説自体が全く書けなくなります。

皆様ご存知の啄木珠玉のクズっぷりがはち切れんばかりに詰め込まれた「ローマ字日記」は、こうして東京で半独身生活を送っている啄木がその後家族を迎えるまで、原稿を書けない現状を逃避するべく給金借金もろとも芸妓遊びに突っ込み爛れた生活を送る約二ヶ月間の様子を綴ったものです。

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↑ 「スバル」明治四十二年第1号 装画:和田英作

「ローマ字日記」から垣間見える啄木の苦悩

この日記は世間で言われているように確かに酷いものです。ようやくありつけた仕事は嘘をついては欠勤を繰り返し、給料を前借りするなり借金をするなりして金を得ようものなら函館の家族へ仕送りするでもなくたちまち女遊びにつぎ込み、しまいには妻以外の女と閨でどんな行為に至ったのか聞きたくも無い詳細を綴り、恩人である京助を「嫉妬深くめめしい男」だと評し、世話になった作家である薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代遅れの幻滅作家」と侮辱し、己が頭一つ垂れることで快く金を貸してくれた友人たちへ「俺に一回でも頭下げさせたやつ皆死ね」とド直球な罵倒を綴っています。生活能力が最低で、自己中的かつ非常識で、返済できない借金を抱えた挙句その借金地獄から逃れるべくまた借金を作るような、いっそ人を人とも思わない口だけ達者な啄木に他人を批判する資格なぞありましょうか。こうまで「お前が言うな」の様式美を極めた一例は、そうお目にはかかれません。

しかしながらその一方で函館で困窮している家族を思い、金を稼がねばと逼迫感から小説を書きたい書かねば書くんだ!…やっぱり書けない…という、結局何も生み出せない自分に対して感じている自己への侮蔑感情が全ページを通して感じられます。啄木の激しい二面性を感じる内容ではありますがこれはどちらも本物の啄木なのでしょうし、恐らくこの矛盾だらけの二面性を抱えて一番苦しんでいたのは啄木本人であったのだとも思います。後に新聞で連載する評論の中で

「もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀かみそりを持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた」

と記してある通り、この時どうやら脳裏に自殺がよぎることもあったようです。

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↑ 岩波文庫「ローマ字日記」

妻・節子が姑との軋轢に耐えきれず家出

明治四十二年六月(啄木二十三歳)東京に家族を迎え、住居を新井理髪店の二階二間へ移します。妻・節子は北海道での生活で無理が祟ったのか七月になると肋骨炎による痛みを訴えるようになり、また意地の悪い姑との軋轢は深まるばかり。その頃になると節子の妹・ふき子が郁雨の元へ嫁ぐことが決まり、節子は妹の嫁入りを手伝う為に盛岡に帰りたいと申し出ますが、啄木は許しませんでした。すると節子は姑との生活に余程耐えかねていたのでしょう、十月に啄木に何も言わず書き置きひとつ残して娘の京子とともに盛岡へ帰ってしまったのです。

今まで一度も不満を口にせず、それこそ啄木が身勝手な理由で職を失って一家離散しても、啄木がどんな不貞行為を重ねても、ただ黙って姑との生活に耐え忍び啄木に従ってきた節子が、まさか己の前からいなくなるなんて考えもしなかったのでしょう。というか考えもしなかった啄木自身が問題ではあると思うのですが…

とにかく、それだけにその時の啄木の狼狽ぶりといったら尋常ではなかったいいます。すぐさま京助の元へ駆け込み「節子がいなければ私は生きてはおられない。私のことを可哀想だとか、泣き暮らしているとか、いっそ馬鹿だとか、どんな悪様に書いても良いから、どうか節子に戻るよう手紙を出してください」と懇願します。そもそも節子が出て行った件は夫婦間の問題であるのだから、他人が口出しすべきことではありません。それを節子と直接話し合いもせず他人に頼る啄木の情けなさといったら、開いた口が塞がらないとはまさにこのことでしょう。しかしそこは啄木にとことん甘い京助です。なりふり構わない啄木の求めに応じて、自分のほうが妻に逃げられたような気持ちになりながらいっそ泣きながら渾身の文章力と感情を込めて長い長い手紙を書き綴り、節子へ送りました。それでも啄木はまだ不安だったのでしょう、郷里の高等小学校時代の恩師へ事の経緯を綴った手紙を送り助力を求めました。

京助と恩師の助力もあり、節子は二十四日ぶりに東京へ戻ってきます。啄木は節子の留守中に母親を「節子がいなくなったのはお母さんのせいだ」と随分責めたといいます。節子は東京へ帰宅してから姑の様子を見て状況を察したのでしょう、妹・ふき子へ宛てた手紙に「私が居ないあとでおつ母さんをいぢめたさうです。(中略)おつ母さんはもう閉口してよわりきつて居ますから、何も小言なんか云ひません。」と記しています。流石の母・カツも節子の家出には勝てなかったということでしょう。またこの一件は啄木に家庭や社会について考えさせる重要な転機にもなったようです。

同年一二月には北海道の伯父の寺で厄介になっていた父・一禎が上京。二年前に離散した一家五人をようやく一所にまとめることができたのです。

「朝日歌壇」の選者に抜擢される

朝日新聞の校正係の職を得たのは良いもの、啄木という人間は今まで経てきたどの職場でもそうですが少し慣れてくると自己都合な我儘を申したり無断欠勤やずる休みをする癖があるのです。この朝日新聞に勤めだしてもその悪癖は一向に治る様子は無かったようです。まだ入社して一ヶ月半ほどしか経ってないというのに、小説を書くためという理由をつけて社を休むことも度々あったとのこと。このように勤務態度は甚だ悪い啄木ですが、 解雇にならずにすんだのは偏に当時の朝日新聞の編集長・佐藤北江氏の人の良さがあったればこそでしょう。

勤勉さに欠け怠惰、まさに社会不適合者とも言うべき啄木ではありますがやはり彼の文才は社内でも評価されていたようです。主筆から「二葉亭四迷全集」の校正を依頼されることもあり、さらにはその文学的才能を見込んで当時の彼には身に余る仕事を与えられます。明治四十三年四月(啄木二四歳)なんと当時朝日新聞の社会部長であった俳人渋川玄耳が「朝日歌壇」を創設する際に、啄木を選者として抜擢したのです。

啄木は以前働いていた函館日々新聞社では「月曜文壇」「日々歌壇」、札幌の北門新報では「北門歌壇」、釧路の釧路新聞では「釧路詩壇」をいずれも創設して選者をしていた過去がありますが、それはあくまで発行部数が少数である地方新聞だから出来たことです。東京の一流新聞の歌壇なら普通は全国的に著名な歌人なり詩人なりを選者に迎えるのが一般的です。一部の歌人には名が知られていても全国的は著名でも何でもない一校正係の啄木を選者に抜擢することは普通では考えられません。勿論社内でも多少の反対があったようです。しかし渋川は今まで自分が思っていた短歌の形式という殻を破り、大胆に、率直に、ありのまま素直な心と言葉で詠まれた啄木の短歌にいたく感心したようで、彼の決断で啄木を選者に据え今日まで続く朝日歌壇は始まったのです。この仕事で啄木一家の暮らし向きが良くなるということはありませんでしたが、全国的にまだ無名だった啄木の名が朝日歌壇の選者として一気に世間に知れ渡ることとなったのです。

歌集「一握の砂」刊行

 前述した通り啄木は自分の短歌を「金にならない単なるおもちゃ」として軽視していましたが、啄木はああ見えて結構まめな人間であるようで一応これまで作った短歌をノートに書き溜めていました。いずれ時期が来たら自分の手で編集して歌集を出したいと思っていたのかもしれませんね。啄木は恐らく歌集を出す見込みは当分無いだろうと踏んでいたのでしょう。ですがその機会が思わぬところで転がり込んできます。

四月に朝日歌壇の選者として抜擢された啄木。その歌壇で発表した短歌が渋川部長の目に留まりお褒めの言葉をもらいます。そしてさらには「出来るだけ便宜を与えるから、自分の発展のために何かやってみてはどうか」という言葉まで頂戴します。この言葉を受けて啄木は、かねてから短歌を書き溜めていたノートを利用して歌集を出そうと計画するのです。

まず啄木は短歌ノートから二五五首を選出し「仕事の後」という表題をつけて春陽堂へ持ち込みますが出版には至らず。それから約六ヶ月間さらに歌数を増減させ約四〇〇首ほどになったものを今度は東雲堂へ持ち込んだ結果、春陽堂での交渉時より高い金額で買い取ってくれました。そして明治四十三年十月に東雲堂と歌集出版契約を結びます。まめで凝り性な啄木は出版は決まった後も歌の追加や形式、表題の変更を重ねて最終的には五部構成で五五一首の短歌を収録、表題は「一握の砂」に変更されました。この頃、妻・節子は大学病院で長男・真一を出産しますが、未熟児であった為か生後一ヶ月足らずで亡くなってしまいます。啄木はあまりに短命だった我が子へ手向けた挽歌八首の中からも三首を選抜してこの歌集へ収録しています。序文は藪野椋十こと啄木の上司たる渋川玄耳が、表紙は当時著名な画家である名取春仙が務めました。そして巻頭では宮崎郁雨と金田一京助に献辞を捧げるとともに亡くなった長男・真一へ哀悼の言葉を置いています。

同年一二月、東雲堂より刊行。出版当時は殊更大きく売れたというわけではなかったのですが啄木死後百年経った現在に至るまで名が残されている通り、形式に囚われず自由に歌う新しい短歌の姿を徐々に大衆が受け入れ、今日の名声を獲得するに至ったのです。歌風は自然派で内容としては前述した通りありふれた人間的感覚や生活の様子を素直に歌っています。一首三行書きの自由な散文スタイルは歌壇内外からも注目され、後に多くの追従者を生みました。啄木の郷里である岩手県でも刊行前後から反響が大きく、後の中学校の後輩である宮沢賢治にも大きな影響を与えたといわれています。啄木の短歌の魅力は渋川部長が歌壇選者に啄木を抜擢した際の理由に尽きると私も思います。つまり、形式に囚われた従来の短歌の殻を破り、思ったままに素直に歌う新しい短歌の道を確立したということです。今現在に至る自由な短歌の礎を築いたのは啄木の功績といっても過言ではないでしょう。

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↑ 歌集「一握の砂」初版 装画:名取春仙

 大逆事件

啄木が歌壇の選者となり「一握の砂」の編集に励んでいる明治四十三年頃、世を震撼させた「大逆事件」が起こります。

分からない方へ向けて簡単の大逆事件の概要を説明しますと、まず明治四十三年四月に宮下太吉という社会主義者が無許可で爆弾を製造していた罪で逮捕されます。宮下は社会主義のなかでも最も過激な思想といわれる無政府主義(※社会主義を実現するために革命を起こして国家という強大な権力をなくし、国民に権力を分散させる思想)に染まっており、宮下が爆弾を無許可で製造していたのは天皇を暗殺する計画があったからだと政府は考えます。事態を重く受け止めた政府は宮下を大逆罪(※皇室に危害を加えた者、加えようと計画したものに与えられる罪状のこと。当時は最も重いとされる罪状であり死刑確定となる)に処します。そしてさらにこの機に乗じて無政府主義者を一網打尽に検挙してやろうと考えた政府は、暗殺計画に直接加担していない者たちまで逮捕するのです。当時社会主義者かつ無政府主義者の指導者として長年政府に目をつけられていた幸徳秋水がいました。政府は宮下の自供から秋水は計画に加担していないと分かっていながら、この機を逃す手は無いとばかりに秋水を捕らえます。蓋を開けてみれば二六名が捕らえられ、そのうち宮下、秋水、秋水の妻である菅野スガを含む十二名が死刑。残り十二名は無期懲役、あとの二名は有期懲役となりました。

大逆事件の裁判は暗黒裁判、つまり非公開であるため真相は未だに闇の中にあります。ただ、宮下の証言もあるように秋水は確実に冤罪であり、二六名のうち宮下と彼の自白に含まれた数名を除いてほとんどは冤罪であったと言われています。

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↑ 明治期の社会主義者幸徳秋水(1871〜1911)

社会主義への傾倒

啄木へ話を戻しましょう。この当時啄木は働けど働けど己の暮らしぶりが良くならないのは国せいだと思っているきらいがあり、ローマ字日記にも「現在の夫婦制度――すべての社会制度は間違いだらけだ。予はなぜ親や妻や子のために束縛されねばならぬか? 親や妻や子はなぜ予の犠牲とならねばならぬか?」と記しています。そうして彼はやがて左翼思想へと傾いてゆくのです。

この大逆事件社会主義へ傾倒していた啄木を大いに刺激します。新聞社に勤めているわけですからそういった情報も掴みやすかったのでしょう。啄木はこの事件に尋常では無い執着心を持ち、幸徳秋水らの弁護人の一人であり歌人仲間でもあった平出修の元を訪ねて陳述書や裁判記録などを借用し独自に事件の調査を重ねます。啄木は大逆事件が起こった同時期に「所謂今度の事」という評論を書いており、報道統制が敷かれこの事件が政府によるでっち上げだと分からない状況の中で彼は警察のやり方に問題があるように感じ取っている旨を記しています。そして平出修を通して調査を重ねた結果、この事件が政府のでっち上げであるという疑念を確信へと深めてゆくのです。そして啄木は幸徳秋水が弁護人へ宛てた意見書にさらに啄木が前書きなどを加えた「A LETTER FROM PRISON」を執筆。そこで彼は公権力の暴走を強く批判し、この暗黒裁判こそが無法であると物申します。つまり啄木は、大逆事件の前に敷かれた報道統制の隙間からこの事件の本質を正確に見抜いてみせたのです。この事件により国家権力による思想統制言論弾圧を深く危ぶんだ啄木は評論「時代閉塞の現状」を執筆、そして匿名を使って事件について深く言及した「所謂今度の事」を紙面に掲載するよう依頼しますが残念ながら掲載には至りませんでした。

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↑ 岩波文庫時代閉塞の現状/食うべき詩/他十編」

 病気を発症、妻の実家・堀合家と義絶

明治四十四年一月(啄木二十五歳)当時、読売新聞に勤めていた歌人・土岐哀果(善麿)が自分の歌集について好意を示した書評を啄木が出してくれていたことから、土岐が啄木へ会いたいと連絡してくれます。啄木と同じく寺生まれであることや、歌風が似ていたこと、社会主義へ関心を抱いていたなど啄木といくつかの共通点があり、会ってすぐ二人は意気投合します。そして二人で文芸誌を出版しようという話になり、表題は二人の筆名をもじって「樹木と果実」と名付けます。しかし依頼した出版社の不誠実により思うように事が運ばず出版を断念。出版契約を破棄したそばから不運にも出版社が倒産の憂き目に遭ってしまい、印刷代金は未回収に終わってしまいました。

その頃になると啄木の体調に異変が生じ始めます。二月一日に大学病院で診察した結果、慢性腹膜炎だと診断されすぐ入院するよう医者に命じられます。二月七日に腹に溜まった水を抜く手術を受け一時的に症状は和らぎますが、その後湿性肋膜炎を併発し高熱に苦しめられます。その後啄木は三月に病院を退院していますが日記を見る限り病気が良くなった様子はありません。恐らく病院側が啄木が治療に熱心な様子がない為、まだ病状は良くなっていないことを承知で退院したいという彼の希望を一時的に聞き入れてくれたのでしょう。帰宅後も病状は悪化の一途を辿り、度々発熱に苦しめられます。

六月初旬になると盛岡の節子の父親が函館の漁業組合連合会に就職したため、盛岡の家を畳んで一家で函館へ移るという知らせが入ります。節子にすれば、家族が函館へ行ってしまえば故郷の盛岡へ帰る家を失い、家族とも今度いつ会えるか分かりません。当然節子は啄木へ一度盛岡へ帰らせて欲しいと懇願しますが、啄木は今度もまた節子の帰省を許しませんでした。啄木は「帰るなら京子(娘)を連れて行かずに帰れ」と節子に告げますが、節子は京子も連れて帰ると言います。先の節子が家出した事件の際は、啄木は節子と離縁したくないばかりに狼狽えてばかりいましたが、今回は違いました。啄木は節子に決定的な言葉を投げつけます。「行くのなら京子の母である権利を捨て、一生帰らぬつもりで行け」京子を人質にとって実質的に離縁を申し渡したのです。しかし節子は結局帰りませんでした。節子の実家は石川家に金がないことを踏んでいたのでしょう、電報為替で節子が帰る為の旅費である五円が送られてきましたが、啄木はすぐに金は実家に返送しろと申しつけます。彼のあまりの厳しい仕打ちに節子は「気狂になりそうだ」と泣き喚いたといいます。啄木の行為は当時の家父長制を盾にした大変卑怯で残酷な仕打ちではありますが、まるで幼児が母親に駄々を捏ねて「行かないで」と縋り付いているようにも見えたのは私だけでしょうか。そもそも節子の実家は啄木との結婚を反対していたので恐らく啄木はここで節子を帰らせたら今度こそ、もう二度と東京へ戻ってこなくなるような気がしたのかもしれません。それで咄嗟に娘である京子を人質にとったのでしょう。この事件が原因で一家は節子の実家・堀合家と義絶するかたちとなってしまいます。

 第二詩集「呼子と口笛」構想と郁雨との絶縁

 節子の実家・堀合家と義絶してしばらく経った明治四四年六月中旬(啄木二十五歳)啄木は詩を執筆します。その数九編にものぼり、うち六編を「はてしなき議論の後」と題して若山牧水が主宰していた文芸誌「創作」で発表。それらの詩を第二詩集「呼子と口笛」の構想に加えました。更に六月下旬に二編を執筆していましたが、残念ながら第二詩集は生前刊行に至らず啄木死後の大正二年に土岐が編集刊行した「啄木遺稿」の中で初めて世間に発表されることとなります。

処女歌集「あこがれ」と比較すると、「あこがれ」は定型体詩であるのに対し「呼子と口笛」は口語体詩で書かれています。作風を比較すると、「あこがれ」執筆時は後に妻になる節子と甘い恋愛真っ只中であった時期が強く反映され甘美でロマンティックな雰囲気に満ちた作風であるのに対し、「呼子と口笛」は社会主義に影響を受けたことや圧迫された生活経験から実生活と乖離感の無い地に足着いた現実的な作風に変化していることが見受けられます。

七月になっても啄木の容態が良くなる様子は一向になく、妻・節子は啄木の病が感染し肺尖カタルと診断されます。こうした一家の状況に部屋を貸している床屋が良い顔をするわけもなく他へ移るよう言われてしまい、八月に節子が見つけてきた小石川区久堅町の一軒家へ転居することになります。病気は留まることなく啄木一家を蝕み、八月末には母カツが腸カタルを発症。啄木の病状は悪化する一方、節子やカツの具合も思わしくないと来ており、一家は当然困窮を極めた状態。同居していた父・一禎は一家のそのような悲惨な状態に耐えられなかったのでしょう、九月に北海道で暮らしている次姉一家を頼りまたもや出奔します。

同年九月、郁雨が節子に宛てた手紙を、たまたま節子が留守にしている時に啄木が受け取り、その中身を改めたことで郁雨と節子の不貞を疑った啄木は、郁雨に絶縁状を送りつけます。

この事件は詳しいことが分かっていません。そもそも節子と郁雨が不倫関係にあったという話は啄木死後、妹・光子が啄木に関する著述で発表した証言からが出所です。争点となっているのは手紙の中に「貴方一人の写真を撮って送ってくれ」と記してあったかどうからしいのですが、郁雨自身は「病気が良くなければ一日もはやく実家の堀合へ帰って静養するのが一番だとすすめてやっただけであり、写真を送れなどと言ったことはない」と、きっぱりそのような事実は無いと否定しているのです。郁雨は明治三十八年に志願して陸軍に入隊し、この事件当時は砲兵将校として演習に参加していました。真面目な郁雨が軍務に励みながらそのような浮わついた手紙を送るとは到底考えられ無いのも事実です。しかしながら、啄木と郁雨がこの時期に義絶しているのは紛れもない事実ですので何か理由はあったのでしょう。

推測するに、先の事件で夫たる自分は節子の帰郷を許さなかったというのに、他人の郁雨が自分の妻に郷里に帰るように指図するのでは主人としての面目丸潰れであり、他人の家庭に口を出すなという意味で絶縁状を送りつけたのでしょう。この絶縁によって命綱であった郁雨の経済的支援は得られなくなり、病気に蝕まれた啄木一家は病院にかかることはおろか食べ物を買うことすら儘ならなくなってゆきます。

結核により、母・カツが亡くなる

明治四五年(啄木二六歳)とうとう啄木の生涯で最後の年を迎えます。この年の元日の啄木日記を見てみましょう。

「今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎へたことはない。といふよりは寧ろ、新年らしい気持になるだけの気力さへない新年だつたといふ方が当つてゐるかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考へると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかつた。」
「先づ朝早くから雑煮がまづいと言つて皮肉な小言を言ひ、夕方に子供が少し無理を言ひ出した時には、元日だから叱らずに置かうかと自分で思つたのが癪にさはつて、却つてしたたか頬辺をなぐつて泣かせてやつた。」
「新年を迎へたといふのがちつとも喜ばしくないばかりでなく、またしても苦しい一年を繰返さねばならぬのかと思ふと、今まで死なずにゐたのを泣きたくもあつた。『元日だといふのに笑ひ声一つしないのは、おれの家ばかりだらうな。』かう夕飯の席で言つた時には、さらでだに興のない顔をしてゐた母や妻の顔は見る見る曇つた。」

日記を読むだけでも啄木一家の悲惨な状況が手に取るように分かります。このような遣り切れない状況の中でも結核は容赦なく啄木一家に襲いかかります。一月十九日、母カツがとうとう喀血するのです。しかしその頃には啄木の家はとうに金が底をつき、医者にかかることはおろか薬すら買えない状況でした。とにかく金を得なければいけない状況になり、しかし今まで殆どの知人から既に金を借りている状況でしたからこれ以上とは到底言いだせません。

そこでふと啄木が思い着いたのは自分と同じく朝日新聞に勤めている作家・森田草平の存在でした。友人・丸谷喜一が見舞金として置いていってくれた一円で薬を買ってその場を凌ぎながら、啄木は森田草平に事情を説明し金策を依頼する手紙を書きます。森田自身も楽な生活をしているわけではないのだから啄木へ貸せる金は勿論ありませんでした。ですが何とか啄木を助けてやりたいと思い、彼は自分の師匠である夏目漱石の奥方・鏡子夫人から見舞金十円を借りて持参してくれます。その金で何とか母を近くの開業医に診てもらった結果、結核であることが判明するのです。それも末期だったといいます。啄木はここに来て、一家を蝕む病気の正体が結核であった事実を知り絶望を隠せない様子でした。日記には、悲しくも偽らざる感情を抱き葛藤する啄木の様子が記されています。

「母の病気が分つたと同時に、現在私の家を包んでゐる不幸な原因も分つたやうなものである。私は今日といふ今日こそ自分が全く絶望の境にゐることを承認せざるを得なかつた。私には母をなるべく長く生かしたいといふ希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる……」
「私は母をも一度丈夫にしてやりたい、併しそれは望まれない事だ。さうして母の生存は悲しくも私と家族とのために何よりの不幸だ!」

薬を買ったことによって丸谷と森田から借りた十一円がもう底を尽きかけたとき、幸運にも朝日新聞の社員からの義援金三十四円と新年宴会酒肴料三円を佐藤編集長がわざわざ啄木の元へ届けてくれます。しかし呆れたことに啄木はこの金で原稿用紙とクロボトキンの本を買う有様で、わざわざ社内で義援金を告知して集めてくれた朝日新聞の杉村学芸部長は

「私は呆れました今日食うに困るからと思ってやった金で、クロボトキンを買うなんて、のんきとも没常識ともいいようがない。私は怒りかつ呆れました。」

と後に語っています。啄木も既にもう三ヶ月ほどの命でしたが、原稿用紙を買っているということはまだ書く、書きたいという思いが余程あったのでしょう。

同年三月七日、母カツが啄木と節子の知らぬ夜中に、ひっそりと息を引き取ります。享年六十六歳でありました。葬式は土岐の厚意で彼の生家であり兄が住職を務める浅草等光寺で執り行われ、遺骨もこの寺に預けられることとなりました。

三月十三日に「啄木いよいよ重体」と読売新聞が発表した紙面を見た京助は啄木の見舞いにやってきます。その当時のことを京助は後にこう語っています。

「彼が亡くなる十日前に行って見ると、想像にも及ばない気の毒な状態にあった。石川君はその時『ひょっとしたら自分も今度は駄目だ』と言った。『医者は』と聞くと、『薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来てもくれない』そしてまた『いくら自分で生きたいと思ったって、こんなですもの』と言って、自分で夜具の脇を空けて腰の骨を見せた。ぐっと突っ立った骨盤の骨、髑髏の両脚を誤ってあばいたような恐ろしい驚きに、私は覚えず怖いものに蓋をするようにして、『これじゃあいけない、滋養になるものを食べて少し肥るようにしなくっちゃあ』と言ったら、『それどころか米さえない』と顔を歪めて笑った。」

京助はこの後すぐさま自宅へ引き返します。当時京介は処女出版「新言語学」の脱稿直後であり近々原稿の金が入る旨を妻に説明し、一ヶ月分の生活費十円を丸々抜き取り啄木の元へ駆け戻ります。そして回想はこう続きます。

「『ほんの少しですけれど』と私が、うつむきながら手を差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言わなかった。『無躾だったかしら』と心に気遣いながら二人を見ると、石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとしていた。 私は私で胸がいっぱいになり、誰ひとり物も言わず、しばらく3人は黙りこくって泣いていたのだった。石川君が一等先に口を切って、『こう永く病んで寝ていると、しみじみ人の情けが身にこたえる』『友だちの友情ほど嬉しいものがない』というので『私の言語学が脱稿したので(無理をした金ではない)』と話すと、自分の著述でも出来たように喜んでくれた。」
第二歌集「悲しき玩具」

啄木は中学を退学した十六歳から亡くなる直前まで日記を書き続けていました。抜けてしまっている期間もありますがおよそ十年近くという長い年月、筆を折らずに書き続けたことは賞賛に値します。明治四十四年に病気を発症して以降でも旺盛に日記を書き続けていますが翌年に入ると病状の悪化により、流石の啄木も日記を書く気力さえ失ってしまいました。日記は啄木が亡くなる約二ヶ月前である明治四十五年二月二十日で終わっています。最後の日記を引用してみましょう。

「日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。」

病床に伏しながら、頭の中は金策を巡らせることで一杯になっていることが読み取れます。最期までお金に振り回された生涯だったのかと思うと、流石に憐憫の情を抱くことを禁じえません。給料は前借りを尽くし、ありとあらゆる知人友人からは既に借金済み、質に入れる物は当然家に有るはずもない。そうなると唯一金に変わる可能性があるものは歌集の原稿のみ。明治四十三年十一月から翌年八月までの十ヶ月間で詠まれた一九二首の短歌が記されたノートと紙片に書かれた2首、合わせて一九四首の原稿が手元にありました。しかしそれだけだと「一握の砂」と比べ歌数が少なすぎる為、エッセイ二編も加え体裁を整えます。「一握の砂」は自分の過去を題材にした歌が多かったのに対し、「悲しき玩具」は当時の啄木の実生活を歌材にしたものが多く見られます。具体的に申し上げますと、家族、病気、思想の歌が多く収録されている印象です。病気で入院し床に伏すことが増えた故に、ようやく家族へ目を向けられるようになったのでしょう。これまで家族を顧みず放蕩ばかりしていた自分を戒めるような歌もあり、啄木の心情の変化が見受けられるようになっています。この歌集の原稿は土岐や牧水たちの尽力のもと、東雲堂が二十円で買い取ってくれました。当時のことを土岐は歌集のあとがきでこう振り返っています。

「受け取った金を懐にして電車に乗っていた時の心もちは、今だに忘れられない。一生忘れられないだろうと思ふ。石川は非常によろこんだ。氷嚢の下からどんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。」
「帰りがけに石川は、襖を閉めかけていた僕に『おい』と呼び止めた。立ったまま『何だい』と聞くと『おい、これからもよろしくたのむぞ』と言った。これが僕の石川にものを言はれた最後であった。」

これは四月九日の出来事であり、啄木が亡くなる六日前のことでした。歌集は当初「一握の砂以後」という表題でしたが、既に刊行していた「一握の砂」と名前が類似しており紛らわしいという理由で出版社に変更を求められました。その為土岐は歌集に収録されていたエッセイ「歌のいろ/\」の末尾の一文『目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。』から採用し、「悲しき玩具」と名付けました。一般的に「かなしきがんぐ」と読まれていますが、生前の啄木の意図としては「かなしきおもちゃ」であったと言われています。歌集「悲しき玩具」は明治四十五年六月二十日に東雲堂より刊行されます。啄木死後二ヶ月後のことであり、啄木は生前この歌集を手にすることは出来ませんでした。

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↑ 歌集「悲しき玩具」初版

啄木の死

啄木はとうとう最期の時を迎えます。臨終に立ち会ったのは危篤の知らせを受け室蘭から駆け付けた父一禎、妊娠中の妻節子、娘京子、友人の若山牧水の四人でした。啄木臨終の時は、節子が義妹の光子へ宛てた手紙の中で詳しく記されているので引用します。

「熱は暮れの三十日から高くなって一月の末には三十九度台でした、氷をつけたのはお母さんの納骨の日からです。三月になってからどうしても今死ぬのは残念だといって、三浦というお医者にかかりましたが、その時もう駄目だと見切りをつけていたそうです。三時少し前に節子節子起きてくれと申しますから、急いで起きて見ましたら、ビッショリ汗になって、ひどく息切れがするこれが治らなければ死ぬと申しましてね、水を飲みましたが、それから少し落ち着いて、何か言うことがと、聞きましたら、「おまえには気の毒だった。」
「死ぬことはもう覚悟していましても、何とかして生きたい、という念はまだ充分ありました。いちごのジャムを食べましてねー、あまり甘いから田舎に住んで自分で作ってもっといいのをこしらへようね、などと言いますので、こういう事を言われますと、私は泣きました。」

啄木は死を目の前にしても原稿用紙を購入していたことから、まだまだこれからやろう、やりたいと思っていたことが沢山あったのでしょう。小説を書きたくても構想が思いつかず煩悶していた苦しみが、病に侵されいつしか書きたいものがあるのに体が追いつかず書けない苦しみへ取って代わっていました。手紙の中でも「今死ぬのは残念だ」と言っていたと記してある通り、志半ばで命を落とすのはさぞ無念だったことでしょう。

親友京助も四月十三日の早朝に車屋に門を叩かれ、臨終直前の啄木の元へ駆けつけます。啄木はやってきた京助の顔を見るなり「たのむ」と一言だけこぼして目を閉じました。京助は恐らくこの言葉を「自分の死後、家族をよろしく頼む」という意味に受け取ったでしょう。その後牧水がやってくるのを見ると啄木は微かに笑いました。その様子に京助はこれならもう数十分は持つだろうと少しだけ安堵し、出勤時間も迫っていた為いったんお暇します。しかし京助が出て行った幾分も経たないうちに啄木の容態は急変。次第に瞳の焦点が合わなくなり朦朧としてきた様子に、牧水は節子を呼びます。その後牧水は一家に頼まれ危篤の電報を打ちに郵便局に走り、帰って来た後も啄木の昏睡状態は続いていました。以下、牧水の「石川啄木の臨終」から引用しましょう。

「細君たちは口移しに薬を注ぐやら唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしていたが私はふとその場に彼の長女(6歳)の居ないのに気がついて、探しに戸外に出た。そして門口で桜の花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いていた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もうとても駄目です。臨終のようです』と言った。そして側にあった置時計を手に取って、『9時半か』と呟くように言った。時計は正に9時30分であった。」

外で桜が散ったのと示し合わせたように、啄木はこの世を去ったのでした。明治四十五年四月十三日、享年二十六歳二ヶ月の短い生でした。京助はついに友を看取ることは出来ませんでした。

啄木死後、名声が広がるまで

妻・節子の死

啄木の死の直後、節子は妊娠八ヶ月の身重でありました。節子はその後六歳の京子を連れて啄木の妹光子の世話で千葉県北条町で療養生活を送り、六月に次女の房江を出産します。ちなみに房江の名前は「房州」に因んで名付けられました。そして二人の遺児を連れて節子が房州から函館の親元へ帰るのは大正元年の九月のことでありました。既に結核にその身を蝕まれていた節子を思い、翌年一月に郁雨の取り計らいで豊川病院へ入院します。そして節子は大正二年五月五日に郁雨に看取られ短い生涯を終えます。享年二十七歳六ヶ月。啄木が死去しておよそ一年後のことでした。節子臨終の様子を、郁雨は京助に宛てた手紙でこう記しています。

「五月五日病院でなくなりました。なくなる時、鉛筆で京子のことよろしく頼むと書きました。それから与謝野さん、金田一さん、土岐さん、森鴎外さん、夏目さんの名を書いて、知らせてくれと言いました。それから私の顔を見て、私の妻になった妹を可愛がってやってくれと言いました。そして眼を閉じて、『もう死ぬから皆さんさようなら』と言いましたが、ニ三分してまた眼を開き、『なかなか死ねないものですね』と言った時はもう皆泣いていた時でした。それからもう一度『皆さんさようなら』と言って眼を閉じると、口から黄色い泡を一寸出しましたが、それで永久の別れでありました。」

節子と啄木は当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれましたが、二人が実際に同じ屋根の下で暮らせたのは北海道では一年足らず、東京では約三年ほどしかありませんでした。それもいずれも甘い結婚生活とは言えないものだったことでしょう。病気の夫、意地の悪い母、自分の嫁入り道具や着物、帯の全てを質に入れざるを得ないような貧困生活、その上自身も結核を移されてしまうときています。ただ耐え忍ぶだけの暮らしで、今の時代であったらこんな甲斐性なしの夫に愛想を尽かして離縁したっておかしくはありません。しかし節子はどんなに苦しくても啄木の才能を信じて最後まで夫に寄り添いました。

土岐夫人が節子のことに関して

「奥さんは、今の若い女の人ならとても一日だってつとまらないと思われほど困難されたようで、主人なども節子さんなればこそだと言い言いしておりました。ほんとに節子さんのように偉い方なればこそあんな苦しみにも耐えられたことと思います。石川さん(啄木)は亡くなってからあんなに名が挙がってその死を惜しまれているのですが、節子さんのことは誰も話にも筆にもしてくれないのは、何だか不公平のように思われてなりません。」

と回想を述べていますが、これには私も同感であります。啄木の才能を心の底から信じる節子だからこそ、この苦しみに耐えられたのでしょう。啄木の名声は死後百年経っても色褪せることはありません。後十年生きていれば、節子も啄木の名声をその耳で聞くことができたでしょう。つまり節子の目に狂いは無かったのです。その事実が少しでも年若くして亡くなった節子への慰めになってほしいと祈らざるを得ません。

啄木の名声が広がるまで

啄木の葬儀は明治四十五年四月十五日、土岐の厚意と牧水、京助の世話により母と同じく浅草の等光寺が執り行われました。参列者として夏目漱石漱石の門下生である森田草平朝日新聞の社員十数名、親交があった歌人たちである佐々木信綱、北原白秋、相馬御風、木下杢太郞らが列席したそうです。啄木は生前金策で周りに散々迷惑をかけてきましたが、死後こうして啄木の才能と死を惜しんでくれる友人知人たちに恵まれたことは啄木にとって数少ない幸運でもありました。

啄木死後、啄木が函館に所縁があったことから当時函館図書館の館長であった岡田健蔵が啄木の義弟である宮崎郁雨らと共に、啄木にまつわる貴重な資料や原稿の保存、そして啄木の業績を後世に残すべく「啄木文庫」を設立します。

大正元年に岡田館長は東京の帝国図書館を視察する際に、郁雨と、函館で療養していた節子からの依頼で浅草等光寺へ預けていた啄木一家(啄木、母カツ、長男真一)の遺骨を引き取り、函館へ持ち帰ります。これは生前啄木が友人へ宛てた手紙に「死ぬなら函館で」と記していたことから、その気持ちを汲んでのことだったのでしょう。節子の父は、小樽の次姉一家に身を寄せていた啄木の父一禎に遺骨の処置について書簡を送りましたが「そちらで適当に処置してくれ」というまるで他人事のような返事に、啄木の友人たちは憤慨します。大正元年、啄木一周忌に合わせて、岡田館長と郁雨らの手によって函館の大森浜を望む立待岬に墓碑が建てられ一家の遺骨もそこへ移されることになりました。

大正四年には啄木が最後に執筆した小説「我等の一団と彼」が東雲堂より刊行。大正八年には土岐らの尽力によって三巻から成る「啄木全集」が新潮社より出版。全集はその後ノーベル書房、河出書房、岩波書房、筑摩書房からも出版されています。こうして啄木の死後彼の才能を惜しんだ友人たちの尽力により、死後百年以上経つ現在に至るまでその名を遺し続けているのです。

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↑ 有志によって函館の立待岬に建立された、啄木一家の墓碑

啄木日記漏えい事件

啄木は己の生涯を十年間綴った日記に関して親友の丸谷と京助に「俺が死ぬと、俺の日誌を出版したいなどと言う馬鹿な奴が出て来るかもしれない。それは断ってくれ、俺が死んだら日記全部焼いてくれ」と依頼していました。しかし今現在こうして日記が出版されていることから分かるように、啄木の日記は全て現存しています。というのも、京助は啄木が亡くなった直後すぐに父親の危篤で帰郷する運びになり、丸谷も啄木の葬儀直前に徴兵検査が控えていた為、日記はすぐには焼かれず節子の手へ渡ります。日記を託された節子は後に「啄木は焼けと申したのですけれど、私の愛着が結局そうさせませんでした。」と語り、全ての日記を自分の死の直前に妹婿である郁雨へ託しました。郁雨は亡くなった節子の気持ちを汲み取り、日記を函館図書館(啄木文庫)へと寄贈します。啄木の文学作品を理解する上でこの日記は間違いなく貴重な一級資料品であり、この日記がもし啄木の遺言通り灰になってしまえば啄木の文学の形成過程や軌跡は明らかにならず研究も随分遅れていたでしょうから、これは節子の功績と言っても過言ではありません。日記の存在は啄木を守る為に節子・郁雨・京助・土岐の間でのみ知る秘密とされ長らく厳重に函館図書館で保管されていました。しかし、昭和六年と昭和八年に存在自体非公開であった門外不出の啄木日記の一部が突如東京日々新聞で掲載されてしまうのです。

日記の存在は一部の関係者しか知らないはずですので、当然犯人探しが始まります。後に啄木の娘京子の婿になった石川正雄は、この漏えい事件の犯人は啄木研究家の吉田狐羊であると指摘します。吉田は研究で正確な年譜をつくる為という目的で、岡田館長の許可を得て日記を閲覧していました。こうして残酷にも明らかになってしまった啄木日記の存在ですが、秘密の存在が公になってしまえば全部見たいと思うのもまた人間の心理。研究者や啄木の愛好家から「公開してほしい」という声を受けて、石川正雄編集のもと昭和二十三年に啄木日記は刊行され、現在に至るのです。

もっとも啄木日記は初めて新聞に存在をリークされた昭和六年から十五年以上の歳月を経て刊行されています。というのも日記の内容は啄木が生前懸念していた通り様々な関係者との利権に絡んでいた為刊行にまで長い時間を要したようです。最終的に刊行を決めた啄木の遺族である石川正雄は後にこう語っています。

「私が、もし出版できたらと考えたのは、昨年(昭和22年)のことである。というのは、その春、啄木晩年の家庭問題についてあられもないことが新聞紙上に伝えられた。これは明らかに誤解! 乃至そうした性質のものであるが、何も知らぬ世間に意外の反響を呼び、いろいろ質問に接し、説明するにもあまりいい気持ちがしなかった。(中略)こう思ったとき、私はいたずらな反駁よりも、これは啄木自身に語らせる外はない。それには日記公刊以外にないのではなかろうか。」

ちなみにこの「晩年の家庭問題」は前述した節子と郁雨の不貞行為を啄木の妹・光子がリークした事件(※所謂、晩節問題)のことです。啄木の日記は私的な内容も赤裸々に綴ってあり、啄木の人間性すら疑うような記述も少なくありません。ただ、啄木文学を研究する上で、また彼の文学を心から理解したいと思っている方にはこれほどリアルで貴重な資料はないことは確かなのです。もし啄木の文学作品に興味を持ち啄木の文学形成の軌跡を追いたいという方には、啄木日記は一読の価値があることをお約束します。

啄木の生涯について、私が思うこと

私が啄木に興味を持ったきっかけ

私が啄木を知った切っ掛けは、多くの方もそうでしょうが高校生のとき教科書に掲載されていた彼の短歌からです。

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心
訳:不来方城跡の草に寝転んで青い空を眺めていると、十五歳の私の心が空に吸い取られるようだった

まだ十代であった当時の私はこの短歌にとても心惹かれた思い出があり、高校を卒業して10年以上経ってもなお忘れることができません。この短歌の隣には北原白秋斎藤茂吉といった歌人の短歌も並べられていたように思いますが、その中のどれとも違う、一際伸びやかで飾らない抒情的なこの歌がつい私の目に止まったのです。不来方の城というのは岩手県盛岡城のことです。岩手の静かな自然に囲まれた、その城下に広がる青々とした芝生の上に仰向けに寝転んで青い空とながれる雲を見つめている。「十五の心」と歌っているのだからこの作者がまだ年若き頃に学校を抜け出してこうして空を見上げていたのかしら。この短歌を初めて読んだ当時、そんな情景がありありと目に浮かんでとても心穏やかな気持ちになったのを今でも覚えています。当時は短歌と俳句の違いすら分からない有様でしたし、あくまで詩や歌というのは教養の一種だとしか考えておらず、だからこそこんなに人間のありのままの生活が鏡のように現れた短歌を見るのは初めてのことだったのです。

そして私は石川啄木の詠む短歌に興味を持ち、学校の図書室で歌集「一握の砂」「かなしき玩具」を借りて読みました。そこに連ねられていた短歌は殊更「死」の言葉を多用し、まるで作者である自分を嘲笑うかのようなものばかり。歌集に濃く滲んで見えるものは、深い深いかなしみでした。この歌集を色に例えるなら青色。それは若々しい青葉の色であり、見上げた空の色であり、砂浜に寄せる波の色であり、沈んでいく深海の色であり、星が浮かぶ夜空の色のようでした。初恋を遠い昔のことのように歌い、生まれ故郷を懐古し、自身が歩んできたこれまでのことを痛恨と悲哀の念を浮かべて歌っているそれらは、まるで死を目前にして見えるという走馬燈に近いものを感じたのです。石川啄木の没年齢は二十六歳であったことをその時に知り、どんな生涯を送ったら二六歳の年若い青年が世のすべてを諦観した老人のような歌を書けるのか、と思ったほどです。私はそのときから短歌という作品を飛び越えて、「石川啄木」という人間に関心を持ち始めたのです。

その後から現在に至るまでは、啄木の生涯を追うように短歌のみならず詩や評論、小説、日記といった彼が記した文章を読み重ねる日々が続きました。私は当初、彼の短歌から想像するに啄木に対して清貧のイメージを抱いていたのですが、彼の生涯を追うにつれてそのイメージは見事木っ端微塵に打ち砕かれます。啄木は承認欲求の塊のような人間で、清貧どころかありとあらゆる友人知人から己の能力では到底返済できるはずのない借金を重ねてきた金の亡者でもありました。時にはほぼ詐欺としか言い様のない方法で他人から金を受け取ったこともある程です。自分のことは棚に上げて言うこと書くことだけは達者なのですから、彼の文学的才能は別として一人間としては擁護できる面が無いに等しいと感じるほどに清々しい屑です。しかしながら彼がこのような生涯を送らなければ「一握の砂」も「かなしき玩具」も生まれなかったのだと思うと改めて人の世の悲しさというか儘ならさを感じ、またこのような俗物が書いた短歌や詩が死後100年以上たった今でも綺羅星のように煌めきつづけているのを見ると、文学とは本当に不思議で斯くも恐ろしいものだと改めて痛感させられました。

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↑ 盛岡城内にある石川啄木歌碑

 啄木の生涯と幸福の在りどころ

啄木の生涯をなぞるにあたって私が不思議だと思った点はいくつもありますが、そのうちの大きなものとして挙げられるとすれば彼の周りには何故か善意の人間が必ず存在するという点です。啄木は郷里の岩手県盛岡から東京へ出てその後また盛岡へ戻り、それから北海道の函館、札幌、小樽、釧路、そして晩年は再び東京といった具合に点々と居所を変えています。いずれも文学者として失敗したり、仕事を失ったり、事件や問題を起こしてまるで逃げるように居所を移しているわけですがその何処へ行っても必ず一文無しの素寒貧である啄木を助けてくれる人が現れるのです。それは例えば郷里の親友である金田一京助だったり、函館で出会った宮崎郁雨であったり、北海道で勤めた新聞社の白石社長であったり、東京の朝日新聞社の佐藤編集長や渋川部長であったり、若山牧水や土岐哀果といった歌人仲間であったり…名前を挙げればきりがない程、啄木は多くの人に支えられて二十六年の短い生涯を全うします。啄木は生活能力が皆無の人間でありましたが、そんなだらしない啄木を放っては置けないと助けてくれる人が絶えなかった様子を見るに何か不思議と人を惹きつける魅力を持っていた人物なのでしょう。そして恐らく私もその魅力に惹きつけられてしまった一人なのでしょう。啄木の生涯はどの点を取っても空虚で、不幸で、貧困で喘ぎ、夢を掴もうともがいて葛藤するもその夢に破れて打ちひしがれているかなしみに満ちたイメージを持つ人が多いようですが、このようにいつだって啄木に手を差し伸べてくれる友人や知人が周りに溢れていたことから、決して全部が全部不幸だったわけではないと私は思っています。

もう一つ、啄木の数少ない幸運を挙げるとしたら、それは短歌に出会えたことでしょう。啄木自身はこのことを幸福と捉えてはいないでしょうが、晩年啄木は日々の生活の苦しさと夢を失った絶望感とで板挟みになり徐々に脳裏に自殺すらちらつくようになります。そういった行き場のない感情を啄木は短歌に吐き出すようになります。逆に言えば、そうやって自分の感情を言葉で表す行為が自ずと心を整理することに繋がり、目の前にある貧困や死とかろうじて対峙できていたのでしょう。短歌は啄木にとって、ありとあらゆるものが儘ならない己の人生の中で唯一意のままに扱うことができた玩具であり、そして短い生涯を通して病める時も健やかなる時も寄り添ってくれた友達のような一面もあったのではないでしょうか。

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↑ 大森浜の「啄木小公園」啄木座像